霊地霊山

むかし昔、山形盆地の西側の山に岩谷という場所がありました。
岩谷は古くからの集落で山の中に隠れるようにありました。
西暦800年代にこの岩谷に慈覚大師が天台宗日月寺という寺を作りました。
30年後には反対側の東の山に山寺立石寺を作りました。
東の山寺を現世(此岸しがん)、西の岩谷をあの世(彼岸ひがん)とし真ん中には三途の川が流れる仏教の教えが世の中に広まりました。
岩谷と山寺は緯度38度18分上にあり、奥の院も同じように395mの高さに作られました。
緯度が同じなので春と秋のお彼岸には太陽が山寺から登り岩谷へ沈みます。
まるであの世へと続く光の道しるべのように。
「西の岩谷 東の山寺」と呼ばれ多くの参拝客で賑わったそうです。
山寺で日々お参りをし徳を積むことで、死んだ後の魂は三途の川を渡りあの世である岩谷へたどり着ける。
長い間信仰され岩谷と山寺は霊場として栄えました。
また岩谷はオナカマ(イタコ)の総本山として口寄せ(霊を自分に降霊させ霊の言葉を伝える)などが盛んに行われました。
そして時は流れ、岩谷の集落には家は一軒もなくなりました。
林業や養蚕業が昭和に衰退し働き口を探して全員が山を降りました。
今は十八夜観音様のお堂がひっそりと建っているだけです。
タガマヤ村は全国から座敷わらしのお参り客が絶えません。
タガマヤ村は岩谷への登り口の場所、あの世への入口だからです。
そして今でも座敷わらし(子供の霊体)や様々な神々がタガマヤ村には住み着いてます。

↑ クリックで拡大 ↑ タガマヤ村周辺はその昔巨大な霊場として栄えていた
山形県では出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)や蔵王山が有名だが長きに渡り「女人禁制」の地であり遠くて険しい霊山であった
岩谷は女性や子供や老人でも気軽に行ける庶民信仰の霊山として平安・鎌倉・室町・戦国・江戸時代に多いに賑わった
青森県の恐れ山(イタコ)と同じような霊的な聖地が山形県では岩谷霊場(オナカマ)であったのだ


※信仰範囲は山形盆地を中心とする村山地方一円であったことが祈願札や石碑などによってわかる
※宮城県をはじめ他県にも十八夜塔が残っており県外にも多くの参拝者がいたことを今に示す
<岩谷の歴史>
●岩谷遺跡で縄文時代の石鏃(せきぞく・石を材料として作られた鏃やじり)や縄文土器が発見される
●飛鳥時代(600年頃)に曽我馬子の商臣・右近衛秀豊により岩谷十八夜観音が開かれ宗教的な場所(霊場)となった
●837年に慈覚大師(円仁)が岩谷に天台宗日月寺を興し再興した
●860年に慈覚大師は岩谷の真東の方角に山寺立石寺を開山した
●岩谷で修行した山伏により山形県内や県外に十八夜信仰が伝えられていった
●出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)や蔵王山は昔は女人禁制だったため岩谷は庶民の身近な霊場として栄えた
●岩谷霊場はその昔オナカマ(イタコ)の聖地(本山)であり修行の場であった
●山形は巫女(みこ)たちによる口寄せが全国的にも特に盛んな地域であった
※盲目の女性(巫女)が死者を呼び寄せる「口寄せ」と呼ばれる儀式

山寺立石寺の詳細はこちら
岩谷はオナカマ(イタコ)の聖地として栄えたが後に養蚕業や林業が衰退し車社会が進むと岩谷住民は次々とタガマヤ村付近の山里に移住し昭和55年に岩谷地区は廃村となった。

昭和40年頃の岩谷地区の集落 遠くに最上川や長崎地区の街並みが見える
昭和の始めには38軒あった住居も昭和40年には25軒に昭和46年には3軒そして昭和55に0軒になり廃村となる
岩谷の軒数が昔から40軒より増えなかったのは水源が乏しかったからといわれている


↑クリックで拡大

タガマヤ村から西方約3km山奥にある岩谷地区の十八夜観音堂は、昔から目の病気をなおす仏神として信仰され、地元はもとより遠方からも多くの信者が参拝に訪れた。本尊の縁日が18日であることから十八夜観音といわれている。
また、当時は「オナカマ(口寄せ巫女)」の本山といわれ栄え、オナカマが納めた道具や絵馬などが国の重要有形民俗文化財に指定された。
※常に人はおらずお堂は閉まったままです






岩谷十八夜観音は飛鳥時代に開基(敏達天皇の代曽我馬子の商臣右近衛秀豊の開基)され、承和4年(837年)に慈覚大師(円仁)が天台宗日月寺を興し再興したと伝えられている。さらに860年に岩谷の真東の方角に山寺立石寺を開山したのだという。
慈覚大師(円仁)が岩谷から東を眺めて山寺立石寺を開く決意をしたといわれている。
岩谷奥の院と山寺奥の院は緯度・標高とも同じで真西・真東にあたっており聖地として崇拝されている。
毎年8月18日の岩谷十八夜観音の例祭では山寺立石寺の坊さんたちが来て火渡りの儀式が行われる。

岩谷の奥の院の洞穴は修験者(山伏)がお籠りをする修行の場であった
山伏が山形各地や他県を回り、天台宗日月寺や岩谷十八夜観音の信仰を広めていったのである

洞窟の中の宝篋(ほうきょう)印塔

↑クリックで拡大
わが国に古くからおこなわれてきた巫女たちによる口寄せ・加持祈祷・卜占(ぼくせん・占い)の習俗が残存している東北地方や奄美・沖縄諸島のうちでも、特に盛んで典型的な地域の一つである山形県村山地方の岩谷十八夜観音。
古くから目の神様として広く信仰を集め「オナカマ」と呼ばれる巫女(青森県でいうイタコ)の本山とされ多くの人達が御祈祷に訪れたとされる。
オナカマは死者との口寄せや神との交信、悪霊退散などの力をもっていた。

↑クリックで拡大
岩谷十八夜観音はオナカマ(口寄巫女)信仰の聖地で、東の山寺に対して、西の岩谷といわれた天台宗日月寺の奥の院には、修行したとみられる洞穴が数か所あり、中世の宝篋(ほうきょう)印塔などが建っている。
岩谷は眼病の神として人々からあつく信仰された。また「オナカマ」という口寄せ巫女(恐山のイタコのようなもの)の本山とされ、多くの人々が岩谷を訪れたという。「オナカマ」は死者の言葉だけでなく、神のお知らせを伝えたり、悪霊を退散させたりもしてきた。


我が国には古くから庶民の依頼にこたえて神がかりし、神意を託宣する巫女(みこ)がいた。
山形県村山地方は、こうした巫業が盛んだった典型的な地域の一つで、
オナカマと呼ばれる巫女(みこ)たちによる巫業を介して庶民信仰が濃厚に展開されてきた。
観音は眼病平癒の仏として信仰され祈願が盛んに行われ、眼の小絵馬が奉納された。

↑クリックで拡大

↑クリックで拡大
多数の庶民信仰資料(絵馬・トドサマ・イラタカの数珠・御祓い用木製斧・木彫鬼面等)951点が奉納されていた。
イラタカの数珠は紐に宝貝・牙・角・古銭を通したもので、呪文の時に使用される。

オナカマたちが巫業をするときに実際に使用したものとしては、神おろしや託宣の際に使うトドサマ、祈祷や占い用の数珠、霊をおろし口寄せするのにに用いるアズサユミ、占いに使った筮竹、算木および諸道具を納めておく下法箱などがある。
これらのものは、使用したオナカマが亡くなると、酒一升を添えて岩谷十八夜観音に奉納したり、別のオナカマに譲りわたされたりした。

数珠に結びつけられた貝類は、サザエ、ツメタガイ、ハナマルユキ、ヤクジマダカラ、ウラシマなど海水産の貝で、南方の暖かい海で中部日本以南の太平洋沿岸から採取された可能性が高い。遠い南の海から東北地方の山間地である岩谷までどのようにして運ばれたのか不思議である。
また数珠の動物の骨はニホンジカ、ツキノワグマ、イノシシ、ニホンカモシカなど全てが雄のものであった。


昔岩谷十八夜観音の祭典は、旧暦の3月18日、7月18日、10月18日に行われ、この日には蟻の行列のように参拝客が訪れたといわれている。
そしてその信仰範囲は、置賜地方の一部を含む山形盆地を中心とする村山地方一円であったことが祈願札などによってわかる。
この日にはオナカマたちも各地から集まってきて、その数が30人にも達することがあったという。


山形県村山地方ではムカサリ絵馬が多く納められている。
「ムカサリ」は、「向かえ去る」あるいは「向こうへ去る」という語に由来するといわれる「婚姻」や「花嫁」を意味する地域語である。
病気や事故、戦争や災害などによって未婚のまま若死にした息子や娘の霊をあわれんで、死んだ子の年をかぞえ、適齢期をむかえるころ、せめてあの世で結ばれることを願って架空の婚礼の絵を描く。
ムカサリ絵馬は供養絵馬のひとつ。「幽婚」ともいわれる死後結婚は、遠く中国や朝鮮にその根源をたどることができるといわれる。
それが、なぜ山形県村山地方一帯にかぎられ、さかんな習俗として残ったのか。
岩谷観音を根拠とするオナカマの仏おろしによってはじめられたという説が有力である。
岩谷十八夜観音の堂内で、神つけというオナカマになるための儀式や、道具の授与なども行われていた。

祭典の日だけにかぎらす、オナカマたちはよく参拝に訪れていた。
トドサマのゴシン(布切れをかぶせる竹の棒の中に法印(山伏)から小さな御神体を入れてもらう。
道具はトドサマ、数珠、ユミが一揃いでみんな十八夜様から授けてもらった。
このゴシンを十八夜観音の住職に入れてもらわなければ、トドサマは神や仏をおろすための神格を持つことができなかった。
お十八夜様は座頭神と呼ばれお十八夜様がつかないと商売ができなかった。


オナカマたちと岩谷十八夜観音との深いつながりがはっきりと浮かび上がってくる。
商売を止める時は必ず大きな洞窟のある岩谷というところに納めなければならない。
ここでオナカマの道具を授けてもらったのだから必ず返さなければならないと教えられていた。
「十八夜様」(とやさま)は神のようで、オナカマに憑くという。
特徴としては、遠野のオシラサマと違って、神像の様子があまりない。
「トドサマは二対に一対。
オナカマサマはこのトドサマを両手に捧げて揺り動かしながら、
神を降ろし、託宣を聞く。
死者の霊(仏)を降ろす時は、梓弓である。
トドサマは口寄せには使用しないらしい。
オナカマになろうとする少女が一定の修行を終え、独り立ちするときには、
「神つけ」という行事が行われる。
神が憑くと、手にしたボンデン(御幣)がぶるぶる震える。
神の名を問われ「お十八夜」と答えると、神つけの儀式は無事に終了する。
そのときのボンデンの棒に布をかぶせ、トドサマが作られる。」

↑クリックで拡大 「オナカマの修行」
「梓弓(あずさゆみ)は、仏降ろしの口寄せ。
オナカマサマが巫業に使用した道具で、オナカマが亡くなると、
酒一升を添えて、この地方の巫女たちの本山ともいうべき、
岩谷十八夜観音堂に納める習いがあった。」
盲目の女性が死者を呼び寄せる。「口寄せ」と呼ばれる儀式を受け継いできた東北地方の巫女(みこ)。
目の不自由な巫女は、青森県の「イタコ」が有名だが、それ以外の東北各地にも存在していた。
秋田「イタコ」、岩手と宮城が「オガミサマ」、山形「オナカマ」、福島「ミコサマ」。
近親者を亡くした人たちからの要請で「死者の霊を体に乗り移らせ、言葉を伝える」という儀式が「口寄せ」だ。
かつて東北には500人以上いたが戦後廃業が相次ぎ、東北地方の巫女(みこ)はほぼいなくなってしまった。
※↑中山町歴史民俗資料館や中山町図書館資料より抜粋
タガマヤ村近くの神社
御嶽神社(みたけ神社)はタガマヤ村から徒歩5分の所にあるパワースポットです
すぐそばには石子沢が流れ夏でも涼しい不思議な空間です
※常に人はおらずお堂は閉まったままです



中山町の伝説 御嶽神社(みたけ神社)
祭神・例祭・由緒
大山祇神(おおやまづみのかみ) いざなぎいざなみのこ

大山津見神ともいう神で大山に住む即ち大山を司る神、山神でである。
愛媛県の大山祇神社から神霊を勧請されているのが例であるが、ここの神社は不詳となっている。
山霊を尊ぶことは有史以前よりあったことは柳沢のみでなく、おそらく集落発生の時代から住民が農耕のすべてを知らない頃からの風習の名残りと考えられる。
御嶽神社境内は昭和36年、縄文中期から後期にわたる(約4,500年~3,000年前)集落遺跡であることがわかった。
出土品には石皿、磨石(すりいし)、凹石(くぼみいし)、石斧(打製・磨製)、土偶片など多数あって古い遺跡であることがわかった。
奉納絵馬
御嶽神社に6点の絵馬が奉納されている。
嘉永7年(安政元年・1854年)村山地方の有名俳人たちが「俳額」を奉納していて、柳沢の地が俳諧が盛んであったことがわかる。
明治23年(1890年)和算の上達を神様に祈る「算額」も土地の人が納めている。
大正元年(1912年)若くして亡くなった子供を供養するため婚礼の様子を描いた村山地方独特の「ムカサリ絵馬」が奉納されている。
タガマヤ村から車で3分
山形県指定文化財 旧柏倉家住宅(九左衛門)
じゅうようぶんかざい きゅうかしわくらけじゅうたく(くざえもん)
約2300坪の敷地に建物が約427坪の学術的にも貴重なお屋敷
九左衛門は、近世の上層農家の形式を継承した大規模住宅。
近代の発展を語る、主屋の座敷や銘木による精緻な内装。
漆塗りや金箔で荘厳な仏蔵、春慶塗で華やかに彩る前蔵の上質な蔵座敷。
山形県村山地方における屋敷構えを特徴とした、「明治期の南東北地方における上質な農家建築」として高く評価されている。左衛門は、近世の上層農家の形式を継承した大規模住宅。
近代の発展を語る、主屋の座敷や銘木による精緻な内装。
漆塗りや金箔で荘厳な仏蔵、春慶塗で華やかに彩る前蔵の上質な蔵座敷。
山形県村山地方における屋敷構えを特徴とした、「明治期の南東北地方における上質な農家建築」として高く評価されている。
住所 山形県中山町岡8
営業時間 【開館日時】 土 日 祝日 10:00-16:00(最終入場15:30)
休業日 【休館日】 月 火 水 木 金 (祝日を除く) 年末年始(12/20-1/10)
料金 【入館料】 500円(中学生以下無料)
アクセス
JR左沢線羽前長崎駅より徒歩20分またはタクシー3分
山形自動車道寒河江I.C.より車で5分
山形空港より車で20分
駐車場 15台 (無料)
ウェブサイト Twitter
ウェブサイト 公式サイト
問い合わせ先
旧柏倉家住宅(九左衛門)
電話番号 023-687-1778
見学についてはこちら
詳しい情報はこちらのFacebookから


山形盆地を一望に見渡せる旧豊田村岡地区に、江戸時代に山形城下の大庄屋を勤めた柏倉九左ェ門家住宅が建っています。
柏倉九左ェ門家は、約4,000坪の敷地に、建物が360坪の豪壮な屋敷で、構造は学術的にも貴重な存在となっています。
主屋の南方には、京都東本願寺を縮図にした内陣、21畳敷の外陣造りをしつらえた蔵造りの「佛間」があり、鎌倉時代の三代名工の一人の作と云われる阿弥陀如来像が安置されています。
佛間前にある這松は樹齢500年を数え、主屋の上座敷(県文化財指定)から望む、西南に展開する丘段を利用した、小堀遠州流といわれる築山庭園は別名「鶴亀の庭」とも呼ばれており、四季の草花に出会うことができます。




柏倉九左衛門家ガイドサイトはこちら
庚申講(こうしんこう)

※タガマヤ村の奥座敷にて
タガマヤ村近隣の講(グループ)では今でも庚申講という昔からの信仰が続いています。
庚申信仰は、元は中国の道教から生まれたものです。
言い伝えによると、人のお腹の中には「三尸(さんし)の虫」というものがいるそうです。
この虫は、干支が「庚申」となる日の夜に人々が寝静まると体から抜けだし、その人が行った悪事を天帝 (てんてい:宇宙を支配する神)に告げにいくのだそうです。
そして、天帝が天の邪鬼(じゃき:たたりをする神)に命じると罰が与えられるので、皆、三尸の虫が抜け出さないように寝ずにお参りをしました。これが庚申まいりの始まりです。
古くから貴族の間でこの習わしが行われていましたが、室町時代頃から民間でも盛んになり、各地で庚申講という集まりができて夜を徹して語り明かす風習が広まりました。
「庚申(こうしん)」とは、暦の十干「庚(かのえ)」と十二支の「申(さる)」の組合せの日のことで、同じ組合せは60日に1回、年に6回(まれに7回)あります。
同様に「庚申の年」は60年に1回巡ってきます。
「庚申さん」と呼ばれている仏さまは「青面金剛明王(しょめんこんごうみょうおう)」です。
もともとは疫病などを撃退する仏さまでしたが、三尸の虫を追い払う力があるとして、庚申まいりでは「青面金剛明王」を奉ってお参りするようになったのです。
また猿は「青面金剛明王」の使いとされ、石像や掛け軸などに、共に描かれています。

↑クリックで拡大

石子神社はタガマヤ村から徒歩3分の子宝で有名なパワースポットです

↑クリックで拡大
※常に人はおらずお堂は閉まっております
タガマヤ村から車10分の岩谷地区にはパワースポットの十八夜観音があります

↑クリックで拡大
※常に人はおらずお堂は閉まっております
タガマヤ村近隣のパワースポット地図

↑クリックで拡大