祈祷師 霊能者 陰陽師

座敷わらし 座敷童子 旅館 座敷わらしの宿



テレビや雑誌に多数出演の有名な祈祷師、霊能者、陰陽師の方々はじめとしてタガマヤ村の座敷わらしに会いに全国各地から様々な方々が訪れます。


座敷わらしの部屋に入るなり座敷わらしと対話を始めます。

なぜ座敷わらしはここに住み始めたのか、常にはどこにいて建物のどこから入ってくるのか、そして今の座敷わらしの状態や何を人に伝えようとしているのか、なぜ宿泊する人々に幸せを与えるようになったのかなどなど様々な対話が始まります。


訪れる祈祷師さんなどに共通しているのはどうしても一度ここに来てみたかったということ、来なければいけない運命(さだめ)だったとおっしゃることです。


タガマヤ村は他ではない清らかな土地や澄み切った空気感を持ち、座敷わらしの他に氏神様やご先祖様たちなどの神々がたくさん見守っているというのが皆さんの共通の言葉です。


特に東日本大震災を境にして神々の多くが集まり始めたようで、荒れていたこの土地や建物を現在のように再生し日々清潔綺麗に保ちながら宿泊者に喜んでもらっていることに対し座敷わらしはとても感謝しているようです。


毎日のおつとめでちょっと疲れ気味な座敷わらしにパワーを与えにやってきたり、座敷わらしにどうしても来てほしいと遠くから呼ばれてやってきたり、座敷わらしからたくさんのエネルギーをいただきに訪ねて来たり。


祈祷師、霊能者、陰陽師さんでまだタガマヤ村を訪れたことがないという方は是非一度座敷わらしに会いにいらしてください。


あなたを座敷わらしはきっと必要としています。


訪問の仕方は一般のお客様同様に宿泊予約昼参拝となっております。



















上の写真はある女性がタガマヤ村に宿泊した時に写したものです。
左を向いた女の子の座敷わらしと鏡の中に男の子の座敷わらしの顔が大きく写っています。

この女性は昔から様々な霊体が見える体質の方で多くの霊能者にスカウトもされたそうです。

この日は夜中の2時頃にそろそろ座敷わらしが現れそうだと感じビデオを回したそうです。
左の座敷わらしの部分が急に白く輝き始めその後に座敷わらしの姿が現れ出しました。






15話 16話













タガマヤ村の半助は昭和42年(1967年)7月22日生まれ


半助の祖父は真言宗の寺院の僧侶、祖母も真言宗の寺院から嫁ぎ、叔父も僧侶、半助の従兄弟(いとこ)も現役住職である。


真言宗の開祖「空海」


半助の父の姉方は神社の宮司職であり、半助の従姉妹(いとこ)、姪(めい)共に現役の宮仕え(巫女みこ)である。





半助の守護霊は修験道の修験者・山伏と言われている。



修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られる。

(山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の混淆宗教)


「修行して迷妄を払い験徳を得る  修行してその徳を驗(あら)わす」


座敷わらしやタガマヤ村を守り日々管理するお役目は、修験者・山伏が半助の守護霊として見守っている所以である。


山形の出羽三山は山岳信仰で有名なところである。

またタガマヤ村の裏山の岩谷という場所は太古の昔から修験者の修行の場であった




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石子神社はタガマヤ村から徒歩3分の子宝で有名なパワースポットです


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※常に人はおらずお堂は閉まっております







タガマヤ村から車10分の岩谷地区にはパワースポットの十八夜観音があります


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※常に人はおらずお堂は閉まっております



●岩谷遺跡で縄文時代の石鏃(せきぞく・石を材料として作られた鏃やじり)や縄文土器が発見される(岩谷の始まりは縄文時代頃からと考えられる)


卑弥呼のように不思議な霊力を持ち神がかりする巫女(ふじょ)(シャーマン)が太古の昔から存在していたのかもしれない

●飛鳥時代(600年頃)に曽我馬子の商臣・右近衛秀豊により岩谷十八夜観音が開かれ宗教的な場所(霊場)となった
●837年に慈覚大師(円仁)が天台宗日月寺を興し再興した
●慈覚大師は岩谷の真東の方角に山寺立石寺を開山した
●岩谷奥の院と山寺奥は緯度・標高とも同じで真西、真東の関係
●岩谷霊場はその昔オナカマ(イタコ)の聖地であった
●巫女(みこ)たちによる口寄せが全国的にも特に盛んな地域であった
※「口寄せ」と呼ばれる儀式で盲目の女性(巫女)が死者を呼び寄せる




現在のタガマヤ村周辺地図(霊場の面影は時代とともに消えていった)

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↑クリックで拡大  かつてタガマヤ村周辺は巨大は霊場として栄えていた


山寺立石寺の詳細はこちら

岩谷はオナカマ(イタコ)の聖地として栄えたが後に岩谷住民は次々とタガマヤ村付近の山里に移住し昭和55年に岩谷地区は廃村となった。


昭和40年頃の岩谷地区の集落  遠くに最上川や長崎地区の街並みが見える
昭和の始めには38軒あった住居も昭和40年には25軒に昭和46年には3軒そして昭和55に0軒になり廃村




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中山町の中心部から西方約4km山奥にある岩谷地区の十八夜観音堂は、昔から目の病気をなおす仏神として信仰され、地元はもとより遠方からも多くの信者が参拝に訪れた。本尊の縁日が18日であることから十八夜観音といわれている。
また、当時は「オナカマ(口寄せ巫女)」の本山といわれるほど栄え、オナカマが納めた道具や絵馬などが国の重要有形民俗文化財に指定され、中山町立歴史民俗資料館に保存されいる。
毎年8月18日の観音例祭で行なわれる火渡りの儀式では、修験者により清められた火の上を大勢の参拝者が様々な願いを込めて渡る。













岩谷十八夜観音の置かれる岩谷観音山は霊地霊山を形成する。

岩谷十八夜観音は飛鳥時代に開基(敏達天皇の代曽我馬子の商臣右近衛秀豊の開基)され、承和4年(837年)に慈覚大師(円仁)が天台宗日月寺を興し再興したと伝えられている。さらに860年岩谷の真東の方角に山寺立石寺を開山したのだという。

慈覚大師(円仁)が岩谷から東を眺めて山寺立石寺を開く決意をしたといわれている。
岩谷奥の院と山寺奥の院は緯度・標高とも同じで真西・真東にあたっており聖地として崇拝されている。
毎年8月18日の岩谷十八夜観音の例祭では山寺立石寺の坊さんたちが来て火渡りの儀式が行われる。

山寺立石寺から真西(極楽浄土)へどこまでもまっすぐ行くと 岩谷十八夜観音へたどり着く。
岩谷にはかつて「日月寺」があり山寺には日月神社があった。
岩谷から見て山寺立石寺は真東(瑠璃光浄土)、 山寺と岩谷は春秋分の日(彼岸)で結ばれている。
さらに岩谷から30°北東方向(夏至の日出)を見ると 東根市観音寺にある「日月神社」にたどり着く。
さらに岩谷から見て30°南東方向(冬至の日出)を見ると 明光寺裏の「日月神社」にたどり着く。
山形盆地には日月信仰が根付いていて、 壮大な宇宙、曼荼羅が構成されていた。 

平安時代の終りごろは岩谷の奥の院の洞穴は修験者(山伏)がお籠りをする修行の場であった。




洞窟の中の宝篋(ほうきょう)印塔


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岩谷霊場は宗教的な存在であった。

わが国に古くからおこなわれてきた巫女たちによる口寄せ・加持祈祷・卜占(ぼくせん・占い)の習俗が残存している東北地方や奄美・沖縄諸島のうちでも、特に盛んで典型的な地域の一つである山形県村山地方の岩谷十八夜観音。

古くから目の神様として広く信仰を集め「オナカマ」と呼ばれる巫女(青森県でいうイタコ)の本山とされ多くの人達が御祈祷に訪れたとされる。
オナカマは死者との口寄せや神との交信、悪霊退散などの力をもっていた。


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岩谷十八夜観音はオナカマ(口寄巫女)信仰の聖地で、東の山寺に対して、西の岩谷といわれた天台宗日月寺の奥の院には、修行したとみられる洞穴が数か所あり、中世の宝篋(ほうきょう)印塔などが建っている。
岩谷は眼病の神として人々からあつく信仰された。また「オナカマ」という口寄せ巫女(恐山のイタコのようなもの)の本山とされ、多くの人々が岩谷を訪れたという。「オナカマ」は死者の言葉だけでなく、神のお知らせを伝えたり、悪霊を退散させたりもしてきた。





我が国には、古くから、庶民の依頼にこたえて神がかりし、神意を託宣する巫女がいた。
山形県村山地方は、こうした巫業が盛んだった典型的な地域の一つで、
オナカマと呼ばれる巫女たちによる巫業を介して庶民信仰が濃厚に展開されてきた。


観音は眼病平癒の仏として信仰され祈願が盛んに行われ、眼の小絵馬が奉納された。3月・8月・10月の18日を縁日と定め、村山地方のオナカマが祭や口寄せを行って賑わっていた。


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多数の庶民信仰資料(絵馬・トドサマ・イラタカの数珠・御祓い用木製斧・木彫鬼面等)951点が奉納されていた。
イラタカの数珠は紐に宝貝・牙・角・古銭を通したもので、呪文の時に使用される。



オナカマたちが巫業をするときに実際に使用したものとしては、神おろしや託宣の際に使うトドサマ、祈祷や占い用の数珠、霊をおろし口寄せするのにに用いるアズサユミ、占いに使った筮竹、算木および諸道具を納めておく下法箱などがある。
これらのものは、使用したオナカマが亡くなると、酒一升を添えて岩谷十八夜観音に奉納したり、別のオナカマに譲りわたされたりした。



数珠に結びつけられた貝類は、サザエ、ツメタガイ、ハナマルユキ、ヤクジマダカラ、ウラシマなど海水産の貝で、南方の暖かい海で中部日本以南の太平洋沿岸から採取された可能性が高い。遠い南の海から東北地方の山間地である岩谷までどのようにして運ばれたのか不思議である。
また数珠の動物の骨はニホンジカ、ツキノワグマ、イノシシ、ニホンカモシカなど全てが雄のものであった。





昔岩谷十八夜観音の祭典は、旧暦の3月18日、7月18日、10月18日に行われ、この日には蟻の行列のように参拝客が訪れたといわれている。
そしてその信仰範囲は、置賜地方の一部を含む山形盆地を中心とする村山地方一円であったことが祈願札などによってわかる。
この日にはオナカマたちも各地からあつまってきて、その数が30人にも達することがあったという。

岩谷十八夜観音は昔から目の病気を治す神様として広く信仰を集めていた。
奉納される絵馬にも目が描かれているものが多い。





岩谷十八夜観音にはムカサリ絵馬も納められている。
「ムカサリ」は、「向かえ去る」あるいは「向こうへ去る」という語に由来するといわれる「婚姻」や「花嫁」を意味する地域語である。
病気や事故、戦争や災害などによって未婚のまま若死にした息子や娘の霊をあわれんで、死んだ子の年をかぞえ、適齢期をむかえるころ、せめてあの世で結ばれることを願って架空の婚礼の絵を描く。
ムカサリ絵馬は供養絵馬のひとつ。「幽婚」ともいわれる死後結婚は、遠く中国や朝鮮にその根源をたどることができるといわれる。
それが、なぜ山形県村山地方一帯にかぎられ、さかんな習俗として残ったのか。
岩谷観音を根拠とするオナカマの仏おろしによってはじめられたという説が有力である。




岩谷十八夜観音の堂内で、神つけというオナカマになるための儀式や、道具の授与なども行われたらしい。



祭典の日だけにかぎらす、オナカマたちはよく参拝に訪れている。

トドサマのゴシン(布切れをかぶせる竹の棒の中に法印(山伏)から小さな御神体を入れてもらう。
道具はトドサマ、数珠、ユミが一揃いでみんな十八夜様から授けてもらったのです。
このゴシンを十八夜観音の住職に入れてもらわなければ、トドサマは神や仏をおろすための神格を持つことができなかったのである。
お十八夜様は座頭神と呼ばれお十八夜様がつかないと商売ができなかったのである。





オナカマたちと岩谷十八夜観音との深いつながりがはっきりと浮かび上がってきます。
商売を止める時は必ず大きな洞窟のある岩谷というところに納めなければならない。
ここでオナカマの道具を授けてもらったのだから必ず返さなければならないと教えられていたそうである。


「十八夜様」(とやさま)は神のようで、オナカマに憑くという。
特徴としては、遠野のオシラサマと違って、神像の様子があまりない。

「トドサマは二対に一対。
オナカマサマはこのトドサマを両手に捧げて揺り動かしながら、
神を降ろし、託宣を聞く。
死者の霊(仏)を降ろす時は、梓弓である。
トドサマは口寄せには使用しないらしい。
オナカマになろうとする少女が一定の修行を終え、独り立ちするときには、
「神つけ」という行事が行われる。
神が憑くと、手にしたボンデン(御幣)がぶるぶる震える。
神の名を問われ「お十八夜」と答えると、神つけの儀式は無事に終了する。
そのときのボンデンの棒に布をかぶせ、トドサマが作られる。」


↑クリックで拡大  「オナカマの修行」

「梓弓(あずさゆみ)は、仏降ろしの口寄せ。
オナカマサマが巫業に使用した道具で、オナカマが亡くなると、
酒一升を添えて、この地方の巫女たちの本山ともいうべき、
岩谷十八夜観音堂に納める習いがあった。」

盲目の女性が死者を呼び寄せる。「口寄せ」と呼ばれる儀式を受け継いできた東北地方の巫女(みこ)。 
目の不自由な巫女は、青森県の「イタコ」が有名だが、それ以外の東北各地にも存在していた。
秋田「イタコ」、岩手と宮城が「オガミサマ」、山形「オナカマ」、福島「ミコサマ」。
近親者を亡くした人たちからの要請で「死者の霊を体に乗り移らせ、言葉を伝える」という儀式が「口寄せ」だ。

かつて東北には500人以上いたが戦後、廃業が相次ぎ、秋田、山形、福島県では途絶えたとされる。
いまは青森、岩手、宮城県に十数人残っているだけだ。




なぜ岩谷地区が霊山、聖地になって栄えたのだろう。
なんと岩谷地区が湯殿山と蔵王山を結ぶ線状のちょうど真ん中であることがわかる。
湯殿山と蔵王山を両方望める山に神殿を設け山神信仰を行っていたのであろう。最も適した場所こそが岩谷であったのだ。
月山、湯殿山は女人禁制で女性は参拝できなかった。遠くて湯殿山まで行けない人や女性で岩谷はにぎわったのだろう。
(岩谷地区には多くの湯殿山の石碑が残っている)
そしてこの岩谷を基準にして真東に山寺立石寺の場所が決まったのであろう。







御嶽神社(みたけ神社)はタガマヤ村から徒歩5分の所にあるパワースポットです
すぐそばには石子沢が流れ夏でも涼しい不思議な空間です








中山町の伝説  御嶽神社(みたけ神社)

祭神・例祭・由緒

大山祇神(おおやまづみのかみ) いざなぎいざなみのこ



大山津見神ともいう神で大山に住む即ち大山を司る神、山神でである。
愛媛県の大山祇神社から神霊を勧請されているのが例であるが、ここの神社は不詳となっている。

山霊を尊ぶことは有史以前よりあったことは柳沢のみでなく、おそらく集落発生の時代から住民が農耕のすべてを知らない頃からの風習の名残りと考えられる。

御嶽神社境内は昭和36年、縄文中期から後期にわたる(約4,500年~3,000年前)集落遺跡であることがわかった。
出土品には石皿、磨石(すりいし)、凹石(くぼみいし)、石斧(打製・磨製)、土偶片など多数あって古い遺跡であることがわかった。


奉納絵馬

御嶽神社に6点の絵馬が奉納されている。
嘉永7年(安政元年・1854年)村山地方の有名俳人たちが「俳額」を奉納していて、柳沢の地が俳諧が盛んであったことがわかる。

明治23年(1890年)和算の上達を神様に祈る「算額」も土地の人が納めている。

大正元年(1912年)若くして亡くなった子供を供養するため婚礼の様子を描いた村山地方独特の「ムカサリ絵馬」が奉納されている。







山形県指定文化財  柏倉九左エ門家 (タガマヤ村から車で3分)






山形盆地を一望に見渡せる旧豊田村岡地区に、江戸時代に山形城下の大庄屋を勤めた柏倉九左ェ門家住宅が建っています。
柏倉九左ェ門家は、約4,000坪の敷地に、建物が360坪の豪壮な屋敷で、構造は学術的にも貴重な存在となっています。

主屋の南方には、京都東本願寺を縮図にした内陣、21畳敷の外陣造りをしつらえた蔵造りの「佛間」があり、鎌倉時代の三代名工の一人の作と云われる阿弥陀如来像が安置されています。

佛間前にある這松は樹齢500年を数え、主屋の上座敷(県文化財指定)から望む、西南に展開する丘段を利用した、小堀遠州流といわれる築山庭園は別名「鶴亀の庭」とも呼ばれており、四季の草花に出会うことができます。












柏倉九左エ門家ガイドサイトはこちら


岡地区散策マップはこちら







庚申講(こうしんこう)







タガマヤ村近隣の講(グループ)では今でも庚申講という昔からの信仰が続いています。

庚申信仰は、元は中国の道教から生まれたものです。

言い伝えによると、人のお腹の中には「三尸(さんし)の虫」というものがいるそうです。
この虫は、干支が「庚申」となる日の夜に人々が寝静まると体から抜けだし、その人が行った悪事を天帝 (てんてい:宇宙を支配する神)に告げにいくのだそうです。
そして、天帝が天の邪鬼(じゃき:たたりをする神)に命じると罰が与えられるので、皆、三尸の虫が抜け出さないように寝ずにお参りをしました。これが庚申まいりの始まりです。

古くから貴族の間でこの習わしが行われていましたが、室町時代頃から民間でも盛んになり、各地で庚申講という集まりができて夜を徹して語り明かす風習が広まりました。

「庚申(こうしん)」とは、暦の十干「庚(かのえ)」と十二支の「申(さる)」の組合せの日のことで、同じ組合せは60日に1回、年に6回(まれに7回)あります。

同様に「庚申の年」は60年に1回巡ってきます。
「庚申さん」と呼ばれている仏さまは「青面金剛明王(しょめんこんごうみょうおう)」です。
もともとは疫病などを撃退する仏さまでしたが、三尸の虫を追い払う力があるとして、庚申まいりでは「青面金剛明王」を奉ってお参りするようになったのです。

また猿は「青面金剛明王」の使いとされ、石像や掛け軸などに、共に描かれています。





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タガマヤ村近隣のパワースポット地図

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